■品種名 小様(こざま)
■生産地 北秋田市小様
■時 期 7月~8月
北秋田市阿仁上小様(こざま)地域に伝わる在来のキュウリです。
かつて、阿仁地域には、江戸時代に日本一の銅産地となった700年の歴史を持つ阿仁鉱山があり、阿仁合という小さな町に約1万人が暮らしていました。小様地域は、その町に立つ朝市に向けた野菜の産地だったとのこと。特にキュウリは有名で、小様キュウリと言われ、重宝されたと言います。
しかし、鉱山の閉山とともに町は縮小、キュウリも現代のキュウリに置き換わり、生産する人がいなくなってしまいました。それでも子どもの頃に食べたという記憶を持つ住民たちが、復活を願っていたところ、県農業試験場にその種が保存されていることを知りました。その種を集落に里帰りをさせて、小様キュウリの栽培が再開されたのです。
その復興活動の中心となったのが、JAあきた北央営農部と地元の歴史研究家でふるさとあに観光案内人の会会長の戸嶋喬さん。
平成23年には、何人かの農家で苗を分け合って栽培をしたのですが、苦みが強すぎたり、形質がで不安定なことがわかりました。そこで、24年には、品質の安定のために、他のキュウリから遠い場所で栽培をし採種をしました。25年度は3戸の農家が栽培しています。
阿仁前田から小様方面を眺めます。あの山の陰が小様地区で阿仁鉱山の一つ三枚鉱山などがあり、千人が暮らしていた集落です。
この深い山の中で、小さな坑道に入ったり、露天堀をしたりと過酷な作業をする鉱夫たち。暑く厳しい山の中の作業に、この小様キュウリが伴われたとのことです。
峠を越えた向こうの田沢地区の田沢地ウリは、山林の仕事によく携行したと昔を知る人が言います。体を冷やす、水分を摂る、味噌で塩分を取るなど同じように使われたのでしょう。
小様トンネルを越えたこのあたり、今は舗装されていますが、よくキュウリが植えられていた場所だそうです。
近くに小様川が流れており、その砂礫が混ざった土質がよいきゅうりを育てたと言います。
トンネル横の畑です。この手シバといわれる、木の枝に絡めて育てます。現代のように誘因用のパイプやネットもない頃、この枝の多いシバは誘因しやすかったのでしょう。(写真は普通のきゅうりです。)
小様キュウリの特徴は、まず、その形です。輪切りにするときれいな三角形で葵の紋の中心を思わせます。江戸や大坂でも丸いキュウリも切ると胎座の部分が葵の紋に似ているとしてて武士は食べなかったと言われています。しかし、鉱山労働者や農業者は、生でも塩漬けでもキュウリを良く食べてきたようです。黄色く熟れたものでも煮物や味噌汁の具、塩漬けにも利用したと言います。
※ちなみに八郎潟町には真坂ウリという五画形のキュウリがあったそうですが昭和30年代を最後に無くなってしまいました。ここには織田信長の次男信雄が秀吉に流されて滞在していたという縁もあり、織田家の御紋家うりと言われたそうです。さらに、秋田県南の小野寺氏は六葉木瓜紋と六角。他にも武家の紋に木瓜は良く使われています。御紋家ウリが無くなってしまったのは残念ですね。
かつて、子どもたちの夏のおやつは、いつもキュウリ。川や沢水で冷やして食べるのがこのキュウリの食べ方の定番だったようです。
皮は苦みが強いので、皮と種をのぞき味噌を付けて、ガブリ!
おやつに、お酒に、山仕事にと愛されたキュウリは清々しい味です。キュウリの青臭さはありません。
こうした地ウリが「昔キュウリ」としてが見直されている昨今、小様キュウリも地域に残したいキュウリの一つです。